趣味の宝箱(インターネット活用研究 番外編)

九州半周 その1

前書き
これはまだ、自分の車を買う以前、友人の車を借りて乗り回してた時代のことです。
よく授業が終わってから友人の家に集まって、遠乗りしました。
この文章自体はこの旅行から4,5年後くらいに書いたものです。(20代半ばに書いたものなのでちょっと青臭いとこもありますが、ほぼ原文そのまま)

1 プロローグ
今時は、海外旅行ブームで学生も気軽に海外へ出かけるご時勢であるが、僕の学生時代も既
にそういう時流のなかにあった。ちょうど卒業旅行は海外へというのが定着したころだった。僕
の同級生の多くがやはり海外に旅行していた。3カ月パリのアパートを借りてヨーロッパを回
った奴、インドの山奥に入り込んで3カ月帰ってこなかった奴。それから、これは卒業後だが
南米に飛んで2年帰ってこなかった奴もいた。そんな時代にあって、僕はほとんど東京にへば
りついたまま、深夜ドライブとか2日で東日本一周などという強行軍は結構やったけれども、
学生流の”旅”というのには無縁の生活を送っていた。貧乏だったというのもあるが、旅をする
にはせこい性格だったためだ。善悪は別として。

そんな中で唯一、強いて言えば友人と三人で行った九州半周が少し旅らしい旅と言えるものだ
ったかもしれない。これは、ほとんど無銭旅行に近い昔の青春映画のにおいのする旅行だった
ので、僕にとって思い出深いものだが、行動をともにした友達のうちの一人、KINOが若くしてなく
なってしまったので、また格別の思い出となっている。

大学時代によくつるんだ友達のなかでも、KINOとOKAは夜の海を見に行くといった遊びに関して
は、割と僕と気の合った仲間であった。お互い,冬の夜の海を見ながら、青春特有の感傷に
ひたっていても、特に邪魔しあうこともない、また互いに気色悪いと思うこともないそんな関係で
あった。二人とも暗闇の中に押し寄せる波を見ながら、あまり(皆無ではなかったが)その場を壊
すような無粋な物言いをしなかった。表現する言葉が見つからない時は、ただ黙っている、その
感覚というか間が僕の感性と合っていたので、旅の仲間としてはいい相棒だった。(だいたい、
男がよるの海を見ながら感傷に浸っているなんて、最高に気色悪いんだから、ぎりぎりで保って
いるその場のバランスをキープするのは、よほどお互いの相性があわないと難しい。)KINOは
寝袋をかついで自転車であちこちとびまわるのが好きな男で、そのての旅行については僕の
師匠のようなものであった。前年には、僕とKINOとで寝袋を持って木曽に遠征したこともあった
し、公園や河原に寝転んで彼と一晩明かした経験は数しれない。3ヶ月インドに行ってしまった
男がいると先ほど書いたが、その男がKINOだ。中国拳法に凝っていて、有名な中国拳法家を
講師に招いて自主講座を開催したりとなかなかしっかりした芯のある男であった。しかし、汗の
においのするタイプではなく、A型特有の神経質な面を持ち合わせており、どちらかと言えば、
一人旅の好きな文学青年ぽい男であった。OKAも十分にセンチメンタルかつロマンチックな男
であったが、また体力にまかせて遊ぶタイプでもあった。ある日突然、何を思ったのか野球部
に入部すると宣言して坊主頭になるような男であった。極端にいえば、その色がすっかりなくな
るまで夕日に向かってじっとたたずんでいるのがKINOで、OKAはつい「夕日に向かってはしろ
う!」と言ってしまうタイプだった。(そんなことを言ったことはほとんどないが。)(僕自身につい
て言えば、その二人を足して二で割ったようなバランスだったと思う。)そんなわけで、よくつる
んであちこち行ったけれども、KINOとOKAはともすると主張の食い違うことがあって、僕はたい
ていふたりのクションのような存在であった。

2 旅にでてみるか
大学生活も3度目の夏を迎えて、今年は九州一周旅行にいこう、でも金がないから一日五千
円プランで行こう、と三人の意見はすぐにまとまった。安くあげるならということで、原則ち
ゃんとした宿には泊まらない(野宿する)、車を3人で交代して運転していく、高速はでき
るだけ使わないということになった。体力だけはある頃だったので、野宿は何の問題もなかった
し、下道だけで遠乗りするのにも慣れていた。(というより、僕自身は下道の方が町々の匂いを
味わえて好きだった。)幸い、KINO家のカローラのライトバンが借りられることになり、我々は
カローラバンに乗り込んで夜中に東京を出発した。少し運転に慣れてきた頃が一番事故を
起こしやすいとゆく言われるが、ちょうど僕もそんな時期で、まだまだ初心者のくせにやたら
スピードを出したい頃だった。恥ずかしながら、「前を行く車は全て抜き去らないと我慢なら
ん。」とか言いながら、カーブの連続する山道だろうが、追い越し禁止の道だろうが、ともかく
前の車を抜くことに夢中になっていた頃でもあった。ヘタクソなくせに結構無理な追い越しをか
けていたので、世間様には「何でこんなとこで追い越ししていくんだ、ばかやろー。」と思われて
いたに違いない。ともかく、まず僕が運転して東名高速をかっとばした。カローラバンのアクセル
を踏みつけて、140Km/hでひたすららとばした。カローラバンのエンジンにとっては相当過酷
な使い方だった、と今にして思う。なにしろほとんどアクセルべた踏みの状態のままだったから。
まだ若かったから車間距離も目一杯詰めて、10mそこそこまで前車に詰めて「10mあれば余
裕、余裕。」とうそぶいていた。不思議と当時はそんなんでも、怖いと思わなかった。

若かった(体力、反射神経的な面と車を使うということから生じる社会的責任、義務に対する
意識が低いという面)のと、まだひよっこドラバーで車の怖さを全然知らなかったためだ。(あほっ!)
(今はまったく正反対の理由により、十分な車間をとっているが。)今でも若造のスポーツカー
は昔の僕みたいに、たいていぴったり車間を詰めてくるが、本当に若い奴というのは、馬鹿で
無責任で始末におえない。自分だけは大丈夫だと思っている。または、俺は命かけて車に
のってんだぜとか肩にぎんぎんに力いれている。まあ、僕もそこまであつくはなかったが、似た
ようなもんだった。

3 スタンドでかもられた事件
どこまでつっぱしたか、記憶は定かでないが、浜松か名古屋あたりでガソリンスタンドに寄った。
給油したついでに、スタンドの店員がエンジンオイルをチェックしますとかいってレベルゲージを
抜き取った。今はそうでもないが、当時は余計なお世話なサービスが横行していて、オイルが
汚れてますから交換した方がいいですよとか、ガソリンに水がたまってますから水抜き剤を入
れた方がいいですよとか言うスタンドが多かった。それがまたしつこくて、一時期スタンドの
サービス過剰(悪く言えば、押し売り)が社会問題になったのを記憶している人も多いと思う。
ともかく、どの客にもそう言うようにマニュアルで指導されているのではないか、と思うぐらい
だった。(だいたいガソリンに水がたまってるなんて、ガソリンぜんぶ抜いてみないとわからん
だろうに。)

S.A. 浜名湖?

僕はまた余計なお世話が・・・と思っていたが、案の定「随分オイルが汚れてますね。
交換したほうがいいですよ。」ときた。「えっ、そうですか。」と言うと、丁寧にレベルゲージの先
に付着したオイルを白い布で拭いて見せ「ほらこんなに黒い。」と言う。今の僕ならオイルがど
れくらい劣化しているか見ればだいたいわかるが、当時はまだよくわからなかった。また、夜に
スタンドの蛍光灯に透かしてみると、色の判別は難しく、汚れているのかどうか判然としない。
こちらが初心者だとみてとったのだろう、スタンドマンは脅しのトークにでてきた。「これだと
エンジンもたないかもね。」これで三人に少し動揺が走る。「少しとばしてきましたからね。
140Km/hぐらいかな。」今ならふふんとききながすところだが、思わず余計なことが口から
漏れてしまった。
スタンドマンはチャンスとばかりに、我々をノックアウトにかかった。「そうで
しょうね。オイル真っ黒だもの。だいたいこの車はそんなにとばす車じゃないよ。」僕は、オイル
は5000Km/hを目安に交換というぐらいの知識はあったから、まあスタンドマンはそう言うけど、
今すぐ換える程じゃないだろうと思ってはいたが、自信が無かったので「あと、何キロぐらい
はしれますかね。」と聞いてしまった。 今から考えればこれは、僕はまったくの初心者です、
車のことは全然わかりませんと言っているようなもの、スタンドマンの思うつぼなのだが。
スタンドマンの会心の一撃が無防備な我々にヒットした。「どれぐらいと言われても、あと何キ
ロ走れるとは保証できません。最悪あと100キロでエンジンがいかれるかもしれない。」 
こう言われたら最後は、これはもうKINOに決断を仰ぐしかない。こういう時のKINOは石橋をた
たいて渡るほうだ。あまり無茶をしない。それで必然の帰結として、オイルを交換することに
なった。スタンドマンはしてやったりと思ったに違いない。(今考えてみるに、確かにかなりとば
していたのでオイルは結構劣化していたと思う。しかし、そんなにすぐにエンジンが焼き付くと
いうことはない。以後100+aKm/h で巡航すればまず問題なかったろう。まあ、悪く言えばかも
られてしまったということだ。)


 

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